株式会社仁の蔵・高橋製菓株式会社

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HISTORY

歴史

高橋製菓株式会社の歴史

初代高橋増雄(昭和7年1月30日生)は兵庫県夜久野に生まれた。 10代のころ舞鶴の清涼飲料の工場で働いていた時に昼休みに食べたあられの味に「こんなに旨いものはない。こんなに旨いものを作る仕事に就きたい」と感動した。 願いが叶って兵庫県御影の村尾商店であられ作りの仕事に就いた20歳の初代は、あられ作りに没頭し、珍しいあられを考案するたび上司に「お前はピカソあられを作るのか」とからかわれた。 その後結婚、昭和32年に独立し、大阪市生野区大友町(現在の小路東)の長屋であられ作りをはじめる。 商売も軌道に乗りはじめた矢先、隣の工場からの出火が燃え移り工場を全焼してしまうなどの困難もあったが、村尾商店をはじめ周囲の支えのおかげで立ち直りを遂げた。 ふぐのかたちをした「ふぐ焼」、亀のかたちの「万年亀」など、本当にやりたかった独自のあられ作り【創作あられ】がヒット商品になり、長屋の工場が立派な鉄筋の工場となり大きく成長、他にも鮎、木の葉、松茸、栗など他にないオンリーワンの商品を多数生み出した。

創業者高橋増雄のプロフィール

創業者:高橋増雄

昭和7年1月30日~平成26年5月4日

あられに魅せられて50年 ~創業者高橋増雄の波乱万丈の人生~

ダメ人間のレッテルを貼られて

高校を出てすぐ18歳、すぐに、三ノ宮の叔父の天ぷら屋に勤めました。半年くらい勤めたのですが、面白くなく、造船会社の事務員に転職しました。しかしそこも1年もたたないうちに退職、その後も、ふすまの張替え、軽作業員、などなど職を転々としました。どんな仕事に就いても長続きせず、今で言うならフリーターに近いような状態でした。当時、職を転々とするというのはダメ人間であるかのように言われてしまう時代です。親戚からは冷たい目で見られ、母親には転職するたびに泣かれていました。 ある時、清涼飲料製造工場で働いている際に、昼の休憩時間に皆と一緒に近くのお菓子屋へ行ってあられを買ってくるということを楽しみにしていた時期がありました。最初食べた時にあられの美味しさに驚き、いや感動して、それ以来やみつきになってしまったのです。当時は米が配給制度で、砂糖も滅多に手に入らない時代、当然あられも口に入ることはなかなかなかったというせいもあるでしょう。しかし、それまで目標も定まらず、周囲からは役立たずで白い眼で見られていたという悩み多き2年と半年でしたが、そこで、あられの美味しさにとりつかれてしまったのでした。「あられに関係する仕事に就きたい」と思うようになるのに時間はかかりませんでした。思い立ったらすぐ行動に移すのがわたしの性分です(なので転職を繰り返してきてしまったのですが)。

天職との出会い

「とにかくあられに関わる仕事をしたい」という強い思いがあったので、いろんなツテを探しまくって、何とか神戸にあるあられ製造業に就職、というより、うまくもぐり込むことが出来ました。20歳の時です。住み込みで朝早くから夜遅くまで働きました。当時あられは炭とコークスを使って焼くような時代でした。燃料としての炭とコークスを選り分けるという朝一番の仕事は、黒いススが出てきて、顔だけでなく、鼻の穴、耳の穴の奥までが真っ黒になってしまうという誰もが嫌がるまさに“汚れ仕事”でした。 しかし私は誰よりも早く仕事場に行ってその仕事を率先してやりました。「自分が好きなあられに関われている」というだけのことで、そういう作業はまったく苦にならなかったからです。あれほど、どんな仕事に就いても続かなかった私が、いくら汚れようが、また日曜日に一人で出勤しても平気だったというのは今から考えると不思議なことでした。天職と出会ったということなのでしょうか。 その後何年かたち、責任ある仕事も任されるようになり、誰よりも仕事ぶりが真面目な男、というそれまで在籍した会社では考えられないような評価を周りからもらっていました。私にすればただ単に、あられの魅力にとりつかれ、自分が好きな仕事をやっているだけのことだったのですが。 そうしているうちに「あられに関われているだけでいい」という思いから「自分独自のあられを作りたい」という思いに変わってきました。そして「うまいあられを作って自分オリジナルのものを関西全域に広めたい」という思いがフツフツと沸いてきたのです。25歳の時です。

自分のあられをつくりたい

雇われている限りは、やはり制約が多くあります。たいへんお世話になった会社ではありましたが、自分の思いを実現するためには独立するしかありませんでした。自分の思いを社長に伝えて、最初は渋っていた社長でしたが、最後には納得してもらいました。5年間勉強させてもらって、神戸の方が馴染んだ土地ではありましたが、円満に独立するために、地域が少し離れた大阪市生野区にあられ作りに適した今の物件を見つけました。  昭和32年の時です。まったくの無一文で行動に移したものですから、家は致し方なく又借り(家主の了解を得ずして貸家人から借りる)ということをしました。製造機械は壊れかけた中古機械を見つけてきて、それを何とか修繕して使いました。  念願の独立のスタートです。最初は1人で製造から注文請けから事務作業まで何から何までやっておりましたが、徐々に売上も増していきました。紆余曲折ありましたが、10年たつのはあっという間でした。その時には、社員が10人を超える規模になっていました。  余談ですが、わたしの周りからの呼び名も年数とともに変わってきました。創業当初は「(頼りない)兄ちゃん」と呼ばれ、その後数年で「おっちゃん」に昇格(?)、それからまた数年たつと「たいしょう」というような感じです。(ちなみに、その後、創業から20年たってやっと「社長」と呼ばれるようになりました。)

突然、とんでもない事件が

経営もやっと安定してきて、このまま徐々に拡大していけそうだ、と思っていた矢先、とんでもないことが起こりました。隣の会社から出た火事がうちの会社に飛び火し、工場が全焼してしまったのです。わたしが36歳の時でした(ちなみに隣の会社はその後転居してしまいましたが)。  工場が無くては何もできません。まったく途方に暮れてしまいました。それからというもの毎日眠れない日々が続きました。死んだ方がよっぽど楽だ、とも思ったのですが、その時には妻と子供4人、社員も12人になっていましたので、投げ出したくても出来るわけがありません。どうしていいのかわからない時に、たいへんありがたい申し出がありました。私が5年間勤務させていただいていた神戸のおかきメーカーの社長が支援を申し出てくれたのです。それはそれは涙が出るほどうれしいことでした。 そのことでたいへん気が楽にはなったのですが、しかし、それまでの毎日眠れないくらいの心労がたたって、火事から半年もしたころには胃に大きな穴が空いてしまい、3分の1も胃を切ってしまう手術を受けることにもなりました。その後いろんな方々からのご支援も受けました。そのおかげで何とか工場、設備を再建でき、その後また業績が少しずつではありましたが伸びていきました。

創作あられで立ち直る

火事になってから6年後、私が42歳の時、魚の「ふぐ」の形をしたあられがあったら面白いのでは、というあられ業界に入ったころからずっと頭にあったアイデアを形にしてやろう、と思い立ちました。なぜ「ふぐ」なのか、ということですが、お腹ふっくらユニークな姿であり、下関で幸福の“福”と呼ばれている、といったことが理由でしょうか。もちろん他社ではどこも作っていませんでした。小さいころから絵を書いたりデザインするのが好きだったのでわたしが元来持っている性分なのでしょうか、今こそそれを作ってみよ、と天から言われているような気がして翌日から試作にとりかかりました。  試作を何回も何回も繰り返して約2ヵ月の苦労の末完成しました。見た目は「おもしろい!」、味は誰が食べても「美味い!」と言ってもらえるのになっていったのです。この創作あられは、発売直後から評判になり、クチコミで拡がっていきました。ふぐあられが世に出てから半年くらいたったころには、工場の機械が1日24時間のうち21時間稼動しているという、今までではまったく考えられないような状況にまでなりました。NHKのバラエティー番組でも取り上げられ拍車がかかりました。殺人的な稼動状態になりました。 このふぐあられの大ヒットで、まさに経営的には絶好調でした。ふぐあられで売上が爆発して、その後、木の葉あられ、きのこあられ、等々、いろんな創作あられを開発し続けて、そのたびに売上も上がっていきました。工場敷地も買い増しして、私が60歳の時には社員が45名にまでなっていました。ちょうどその頃、平成5年くらいには、いろんな銀行が“ぜひとも融資させてくれ”と日参してくるようになりました。融資を受けて多くの土地を購入して、複数の直販の店舗を出すばかりでなく、販売専門の別会社を作ったりもしました。

廃業を決意する事態に

しかし、それが後になって大きく響きました。そうそう急激な売上の伸びが毎年続くわけがありません。その上、まだバブルの最後の方の時期で、土地が一番高い時に購入してしまったのです。まさに経営判断の失敗でした。  資金繰りが悪化する一方の状態になり、これ以上傷を深くしたくない、という気持ちになっていました。今なら退職金も払える、もう会社を閉めよう、ついに決断し、整理に着手しました。私の持てる全財産を社員全員に退職金として払いました。わたしも他のお菓子製造会社に働きに行くことになりました。しかし、お客様の中には「創作あられはおまえのとこしか作ってない。何とか続けられないのか」と言っていただく方も少なからずおられ、社員からは「給与を大幅に下げてもいいから会社を何とか続けてほしい」という声が強くなってきました。かなり悩みましたが、これらの声が大きな圧力となってわたしを突き動かしました。最後には存続していくことを決断したのです。

初心にかえり会社再建、あられに魅せられおっとどっこい50年

再開が決定してからというもの、社員は以前とは目の色がまったく違っていました。何とか今までより効率よく製造するにはどうしたらいいか、よりお客様が満足する商品づくりをするにはどうしたらいいか、などなど、会議という名目でわざわざ設定しなくても、みんなでその都度意見を出し合って改善していくんだ、という雰囲気が生まれたのです。まったく会社自体生まれ変わってしまったのです。社長である私の判断の失敗で経営危機に陥ったのではありますが、背水の陣という状況になった集団はこんなにも変わるものなのか、と驚きました。 そしてその後、また少しずつではありますが、会社の業績は徐々に回復してきました。そして今はたいへん良い雰囲気で盛り上がっています。しかしまだまだこれからです。これからも紆余曲折あるに違いありません。しかし、わたしは、見て楽しく、食べて美味しいおかきを世の中の出来るだけ多くの人に提供していくんだ、という思いを持ち続けている限り、そして今のスタッフが居る限りはだいじょうぶと思っています。 私の信念は「嘘はつくまい。だまされてもだますな」です。50年の歴史で授業料を少なからず支払いました私ですが、現在親しい人々と良き従業員に囲まれ、幸せに頑張っています。終わりよければ総てよし。これが実感です。長々とわたしの仕事の歴史を読んでいただきありがとうございました。